おそらくもっともわかりやすい物理的世界観は、「ラプラスの魔」に象徴される 「計算による予言(予測)であろう。 これは、現時点におけるすべての情報(物理量)を知ってしまえば、あとは巨大な計算機 によって未来がすべて計算可能である、というものである。
このような考え方は、 誰しも無意識に行なっていること の延長線上にあるものであって、自然である。
これを単純に数学の言葉で書いてみると、こうなる (単純化しすぎについては容赦頂きたい。)。
(ii)時間の概念の変革(相対性理論)
ここでは量子論について多く触れたいので相対論については 簡単に触れるだけにとどめよう。 相対性理論は時間の特別視を否定する。この理論の視点からは、時間と空間とは まとめられて「時空」として考えるのが自然であり、空間は時空を適当に 切った「切口」として認識される。切り方にはいろいろあるので、それにつれて 空間のあり方も多様になる。
この考え方を理解するには、時空を一枚の絵にたとえると便利だろう。 我々が通常「空間」として認識しているものはこの絵を縦に切った切口であり、 それは時間が経つに連れて左から右へと動いていく。 この絵を楽しむための一番よい方法は、切口が動いていくのを時間を追って 眺めていくことではなく、絵全体を見渡すことである。 物理法則はここでは絵の「 整合性 」で表現される。
相対性理論の考え方を持ち込むことにより、(i) の 2. は変更をうけることになる。 すなわち、
「状態」の集合は時空のスライスたる空間を一つ指定することにより決まる。 物理法則は、状態の時間変化をみるというよりは、全体の整合性で与えられる。
(iii)不確定性の導入(量子論)
量子論は原子レベルの大きさの世界で起こるさまざまな現象を説明するために 生まれた。 この理論においては物理量は作用素(身近な例では微分作用素)で記述される。 例えば原子による光の吸収/放出スペクトルは適当な作用素の数学的な意味での 「スペクトル」に一致する。
我々の後の議論にとって重要なのは、 物理量を表す作用素が一般には非可換であるという事実である。 このことは、いわゆる不確定性原理を生み出すもとになる。 じっさい、位置、運動量の作用素の非可換性を用いて、位置ー運動量の 不確定性を表現することが出来る。
物理量の非可換性のもたらす意義については、次の項目を経て、 更に詳しく議論したい。
(iv)関数環への着目
数学では、空間を調べる代わりに、その上の関数のなす環を調べるという 手法が、有力な道具として使われる。 いろいろな場合に、関数環はもとの空間の情報をすべて握っていることがわかる。 すなわち、原理的には、空間を忘れて関数環のみの情報から我々が知りたいことを すべて導き出すことが可能である。
このことは、集合論からの一つの飛躍点を与えている。すなわち、 「集合上の関数環になっているような環」を一般化することで、 「集合上の関数環ではないけれども、興味深い環」のカテゴリーを作り、 それを研究の材料とすれば、集合論的ではない新たな理論が構築できる。 非可換幾何学とは、まさにそのような線に沿うもので、関数環を 一般の非可換環に置き換えて、そこに幾何学を見出そうとするものである。 量子論では、物理量全体のなす環は非可換であるから、 非可換幾何学と量子論は相性がいいといえる。(実際、多くの 非可換幾何の対象物が、「量子・・・」と呼ばれている。)
この《基礎的考察》の目的は、非可換幾何学を徹底的に解剖して、我々が世界で自由に 動き回るように自由に非可換多様体の中を動き回れるように することである。
(v)非可換性の《伝染》
量子力学が生まれたてのころ、この理論が実際我々の住んでいる世界の法則として 相応しいものかどうかの、徹底的な議論が行なわれた。
(このような議論は(余りに哲学的になりすぎた部分があるという 批判はあるものの、)重要であったように思われる。 数学では、量子力学が出て来た当初の問題意識がそんなに高くなかったのでは ないか、と私は疑っている。 だから(本来幾何学者全員がやるべき)非可換幾何学が 余りポピュラーではないのだ、と。(でもこれはたぶん私の偏見なのであろう。))
それらの議論のうち初期に多かった問題は、 「量子系を古典系から観測したとすると、簡単に矛盾が出る」 という文にまとめられる諸問題である。 これに対する解決は、つねに、 「《観測》する時には観測される対象に影響を与えることが不可避である。 そして、観測する我々も実は量子力学的なゆらぎを持っているということを 忘れてはならない。」 というものであった。(物理現象の多様さと、観測する手段の多様性 を考えれば、非常に多くのやりとりがなされたことは想像に難くない。)
それらのやりとりを別の見方でみることが出来る。それは、 「一旦量子的な現象を仲間に加えた時には、観測者たる自分自身を含めてすべて の対象に対して量子的なゆらぎを考慮にいれねば矛盾が出る。」 あるいは、もっと数学の言葉に近づけると、 「量子的なゆらぎは《伝染》する。非可換な対象を研究するためには 理論のすべての側面について非可換化を検討、実施する必要がある そうしないと矛盾が出る。」 ということである。
量子力学に関する初期の論争ですでに重力が表舞台に上がっているのは興味 深い事実である。量子力学を無矛盾に建設するためには 重力も当然量子化される必要がある。現実的には、 重力の効いて来る世界と量子力学の効いて来る世界にはスケールのギャップが あるので、量子重力の理論が現実の応用にすぐさま必要と言うわけではない。 しかし、(等号の世界に住んでいる代数幾何学者等にとってはとくに、) 効果が少ないからと言って捨てさることは出来ないはずである。 なにより「重力と量子論の結婚」というトピック自体が、大勢の目をひくに 充分なほど魅力的な題材である。
(vi)場の量子化
重力は「場」の例である。すなわち、どの程度の重力 が働いているかは、空間の各点によって異なっており、 それは空間上の「関数」を与える。 (正確には、関数というよりはあるシーフのセクション という方がよい。(「場」に対応するシーフがいつでも準連接的であるとは、 私には思えない。)また、ファイバー束の構造定数を場と呼びたい時も生じるので、 その意味では、 「場とはコホモロジーのことである」 と観破するとカッコイイのかも知れない。)
話を単純化するために、ここでは「場」とは空間の上の関数であると 考えることにしよう。 場の量子化とは、関数の選び方そのものが、ゆらぎを持って分布している と考えることを意味している。標語的に言えば、「関数環の上の関数(波動関数)」 を考えることになる。空間上の関数(波動関数)を相手にしだしたのが「量子化」 と呼ばれるのに対して、場の量子化に現れるこのような考え方を、 「第二量子化」と呼ぶこともある。
実はここに書いてあることだけでも数学者にとっては厄介な代物である。 「関数環」は大抵の場合無限次元空間であるので、その上の関数の解析には かなり骨が折れる。
ただし、これには抜け道があって、たとえば「場」といっても本質的に同じもの (同型なもの)を除くと有限次元のものから選ぶことになる場合がある。いわゆる モデュライ空間の登場である。このような場合には、 場の量子化は、モデュライ空間上のシーフの研究に置き換えられる。
(vii)第三量子化。
はなしは、上のことで終りではない。お察しのとおり、 「関数環上の関数環上の関数」 というのを考えることも出来る。しかも、《非可換性の伝染》ということを 考えにいれると、こういうものが出て来るのは私には不可避に思える。 現在、第三量子化の例(私が聞いたことのあるもの)には、二つあって、
がそれである。前者については私は小耳に挟んだだけであるので 嘘八百入りでも解説することは出来ない。後者については、
と理解すれば一応の納得はいく。(だからといってわかったわけではない。)
(viii)楕円を目指して
この調子でいくと、第 n 量子化 (n=1,2,3,....) が苦もなく想像できそうである。 何度も言うが、この流れは私には不可避に思える。
しかし、「不可避」というのは 《既存の理論を非可換の香りをつけて修正する立場に立てば》、 という条件のもとに言っているのであって、もっと抜本的な発想の転換 が必要なのかも知れない。
この無限に続く鎖について考える時にいつも頭をよぎるのは、ケプラー以前の、 「惑星の軌道を円運動の合成であらわそう」 という考えである。
ご存知のとおり惑星の軌道は楕円を描くから、 第一近似として円を考えるのは道理にかなっている。 (しかも当時は天動説が当たり前であるから、地球の軌道と他の惑星の軌道と、 都合二つの楕円を近似するために、二つの円を使うとかなりよい答えが 出るはずである。) しかし、所詮は楕円を円であらわすには無理がある。(不可能ではないが、 事態を必要以上に複雑にしている。)
量子化の鎖にしても、こんなのは間違いで、本当はもっと簡明な 考え方があるに違いない。それは、鎖の延長とは 全く違った考え方だから、もし正しい考え方が分かってしまった人は、 そちらを続けられるのがよい。いまのところ、よい考えが浮かばないから、 ここでは差し当たっては円を合成する立場で議論をすることになる。
今考えた「量子化の鎖」は、集合論からの無限回の逃避と考えることも出来る。
すなわち
結局、集合論を古典的なものからバージョンアップするのが正しいやりかた なのかも知れない。 「論理」と「集合」とは対になって現れるものだから、 おそらく、正しい理論では論理学そのものも、変更する必要がある。
結語
今回は、Seminaire Bourdoki I の考察の対象の更に先にあるであろうことについて 述べてみた。単純な発想ではあるが、やるべきことはたくさんある。